あえて目を瞑る

今日は静かな記事です。




私は、「事件」や「事故」というものを、結構調べてしまうたちで。

それは直近のものだったり、未解決事件だったり、歴史上の大虐殺だったり、する。

なぜか?というと一番しっくりくる答えは「興味をもってしまうから」で。

なぜその事件は起きたのか?

誰が、どんな被害を受けたのか?

どこで起きたのか?

犯人はどうなった?

そういうものを調べてしまう。

もともと歴史が好きで、その人たちがどこで何をやって、その行為がのちにどう繋がっていったのかということを考えたりその人たちが残した物品を見ることに関心があることも影響しているとは思うんだけど。


私は今のところ、至極平和な人生を生きていて、事件や事故、人の悪意と無縁でいるから、「自分の知らないこと」に興味をもっているんだとも言える。


でもそれは、当事者にとっては不幸な出来事で、そこには今も苦しむ方々がいて。

そういうものに関心を寄せてしまう自分を、凄く嫌な人間だなと思ってしまうことがある。

何か事件が起きたあと、追いかけ回す人を見るときもっとそう思う。

小さな子供。女子高生。家族間の問題。

ただ「人と人が事件を起こした」より、センセーショナルな見出しであればあるほど、涙と怒りが渦巻いていればいるほど、人々は熱狂して、追いかけ回すように思う。


わたしにも、その感情はきっとある。

最初は「可哀想に、どうして、どうして?」という純粋な気持ちがあって、それは本当にそうなのだ。どうして?と思って調べても、なんの情報もない。その子はどこで死んだの。どんな子供だったの?そんなことを考え出していまう。

「報道」はそういう人たちに正しい事実を伝えて混乱を収める力があると思うし、商売としては、知りたいという欲求に応えることで利益を発生させられるから、伝えなければいけないという使命があるのもわかる。


でも、「一般人が知るべきこと」と「知らなくていいこと」がある。

犯人の動機、名前、事件の詳細、被害者の名前、それは明かされていいと思う。

でも、二人の住所や、生い立ちや、親族や、そういうのは、いらないんじゃないか?

それは報道ではなくて野次馬っていうんだ。


新潟の事件。犯人がわかったなら、もう私は何も知りたくない。あの子を思ってただ祈りたい。